愚図ケンジ、ゲンヤ、TAISHO、ダイサクの4人になってからの最強・唯一無二・無敵の"BCG ROCKERS"の終演はあっけなくやってきた。
この4人になって本当にファミリーだと思えるバンドを作れたオレ達はいつも言い合っていた。
「このメンバーのうち、誰か1人でも欠けたら"BCG ROCKERS"は終わりや・・・」。
TAISHOから脱退の申し入れを受けた時、その事と、ヨーコさんとの約束が瞬時に脳裏をよぎった。
しかし、オレはすぐにその場で決断を下した。
「解散しよう・・・」。
バンド活動がうまくいっていない時ならまだしも、路上ライブでの成果が実って活動内様の方は絶好調、
次はメジャーで勝負・・・と思っていた矢先の事だったので、当然新たにベーシストを入れて続けるものだと思っていたTAISHOは、
即座のオレの決断に驚いていたようだった。
しかし「この4人が最高のメンバー、この4人だからこそ・・・」と思っていたオレは、もう出来上がって完成されてしまっていたファミリーに、誰か新しいメンバーを入れると言うのは違う、と思ったし、
やはり初志貫徹じゃないけれど、誰が欠けても"BCG ROCKERS"は終わり、だと思った。
他のメンバーもその結論に同意した。
そして次に、「ヨーコさんに何と伝えよう・・・」。
この思いだけが結論の出ないまま、1996年2月、
めずらしく大阪の街にも雪がつもった寒い日の「BLOW DOWN」で、
この4人でのラストライブを迎える事になった。
解散を発表して間もなく「解散3DAYS」と銘打って1週間に3本のライブを立て続けに行って幕を降ろす事にした。
これはこの3本のライブで、最後にこの4人で発表した数多いオリジナル・ナンバー全てをやりきろう・・・と言う考えでやる事になった。
しかし、それ以外のスケジュールはすべてキャンセルさせてもらう事になった。
解散を決めたのに、もう決まってしまっているスケジュールだからと言って 義務感でステージを消化するのも何かフに落ちない。
お世話になっていた人達に迷惑をかけてしまうのは重々わかっていたので、苦渋の決断ではあったが、
やはりオレ達は「気持ち」「心」でプレーしたかったので、わがままを言わせてもらった。
ライブツアーの決まっていた関東へも、当時のウチのマネージャーをやってくれていた「BLOW DOWN」の山内氏も同行してくれて、
メンバー全員でお詫びに回った。
当時、まだパソコンも一般家庭には全然普及するようなレベルではなく、ホームページも当然無かった。
オレ達とお客さんをつなぐものは、ステージと客席、フライヤー(チラシ)、DM(ダイレクト・メール)のみだった。
DMとフライヤーで、解散の事実と、残りのライブスケジュールだけを告知した。
当然、支持してくれていたファンの人達は「理由」を聞いてくるだろう・・・。
しかし、ライブでそれを語るのはロックンロールが色褪せてしまう。
解散理由をおおまかに説明させてもらう文面をつづった紙面を、この解散3DAYSに来場してくれた人達には配らせてもらう事にした。
この時発表した解散理由には、この解散が決まる前から決まっていたオレの"愚図"としての活動や、他のメンバーの次の活動の事もあり、
「4人それぞれが"BCG ROCKERS"以外での音楽性を追求する為・・・」とだけ説明するにとどめた。
きっかけはTAISHOの脱退表明だったにせよ、4人で出した結論。
メンバー1人を矢面に立たせる幕引きにはしたくなかった。
そして「解散3DAYS」と銘打ったものの、解散理由が綴られた紙面が配られた以外、何の補足説明も口頭ではしないままに2DAYSを終え、ラストステージを迎えた。
楽屋で「もう1回考え直した方がええんとちゃうか?」などという不謹慎な冗談が出る程、大勢の人達が「BLOW DOWN」につめかけてくれた。
入りきれない程の超満員。
勿論、Tさんとヨーコさんもいた。
ライブは凄まじいまでの盛り上がりだった。
オーディエンスのみならず、メンバー全員が悔いの残らぬようにWアンコールまでを全力でやり抜いた。
このラストライブでは、Wアンコールの本当の最後のナンバーの前に、オレだけが先にステージに出て行き、ほんの少しだけ「解散」について語ったが、込み上げてくるものがあったのと、らしくない・・・と思い直したのとで、
少々乱暴に切り上げた。
そしてライブ終了後、それまでのライブでは一切客席フロアに顔を出す事をしなかったオレも、
最後だけは・・・と思い、楽屋を訪れてくれた仲間達に礼を言い、着替えをすませたら、
客席に残ってくれているずっと応援してくれていたファンの人達1人1人にお礼とお詫びの挨拶に回った。
そして最後に、Tさんとヨーコさんのもとへ・・・。